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東京地方裁判所 平成8年(ワ)22598号 判決 1998年10月30日

原告

田中波津美

右訴訟代理人弁護士

杉井静子

被告

社団法人日本硝子製品工業会

右代表者理事

山中衛

右訴訟代理人弁護士

小山香

右当事者間の損害賠償等請求事件について、当裁判所は、平成一〇年一〇月二日に終結した口頭弁論に基づき、次のとおり判決する。

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一原告の請求

一  被告は、原告に対し、金五〇〇万円及びこれに対する訴状送達の日の翌日(平成八年一二月一一日)から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

三  仮執行宣言

第二事案の概要

本件は、被告を退職した原告が、給料増額の通知を受けたにもかかわらず増額分が支払われていない上、退職に追い込まれたとして、被告に対し、未払賃金四九万五七七八円と退職に追い込まれたことによる精神的損害等の賠償金一億円の合計一億〇〇四九万五七七八円の内金五〇〇万円の支払を求めている事案である。

一  争いのない事実

1  原告は、平成六年二月被告に採用された。

2  原告は、当初は経理事務を担当していたが、同年五月中旬ころ経理事務をはずされ、以後他の事務に従事するようになった。

3  平成七年四月二〇日、被告の小川晋永理事(以下「小川専務」という)が、原告に対し、自宅待機を命じた。

4  被告は、同月二八日、原告を解雇する旨の通知書(内容証明郵便)を発送し、この通知書は、翌二九日原告に到達した。

5  原告が、東京都労政部労働経済局労働組合課職員の神津章子(以下「神津職員」という)に相談したため、同人が両者の間に立って話し合いを進めた。

6  原告と被告代理人小山香弁護士(以下「被告代理人」という)は、同年五月二九日、神津職員立会いの下で、同職員が文面を作成した左記内容の確認書(以下「本件確認書」という)に署名押印した。

(一) 原告は、被告を平成七年五月三一日をもって合意退職したものとする。

(二) 被告は、原告に解決金として六一万七二五〇円を平成七年五月三一日に支払う。

(三) 原告と被告は、本確認書に定める事項以外、本件退職に関し相互に一切の債権債務がないことを確認する。

7  被告は、同月三一日、原告に対し、六一万七二五〇円を支払った。

二  争点

1  被告の小川専務が、平成六年一〇月四日、原告に対し、同月から年俸五〇〇万円に増額する旨通知した事実があるか。(給料増額通知の有無)

2  被告が違法に原告を退職に追い込んだ事実があるか。(被告の不法行為の有無)

3  原告は、本件確認書の作成により、被告に対し、未払賃金及び不法行為による損害の賠償を請求することができなくなったか。(本件確認書作成の効果)

三  当事者の主張

1  争点1(給料増額通知の有無)について

(原告)

(一) 被告の小川専務は、平成六年一〇月四日、原告に対し、同月から年俸を五〇〇万円とする旨通知した。

(二) 年俸を五〇〇万円とした場合、一か月の給料は、五〇〇万円を一七か月(賞与五か月分を含む)で除した二九万四一一七円となるから、平成六年一〇月から原告が退職した平成七年五月までの八か月間に支払われるべき給料は、毎月の給料として、二九万四一一七円に八か月を乗じた二三五万二九三六円と、賞与分として、二九万四一一七円に二・五か月を乗じた七三万五二九二円の合計三〇八万八二二八円である。

(三) ところが、被告は、従前どおり、一か月の給料を二四万六九〇〇円として計算した合計二五九万二四五〇円のみを支払い、差額四九万五七七八円を支払わない。

(被告)

(一) 原告主張の事実は否認する。

(二) 被告に年俸制の職員はいない。

(三) 平成六年一〇月四日までには、原告の経理・決算能力、一般事務遂行能力及び協調性の欠如が明らかになっており、年度の途中で年収を四〇九万七三〇〇円から五〇〇万円へと二二パーセント増やす理由が存在しない。一〇月四日というのは、被告が原告に対し、自主退職を勧告した日である。

(四) 原告は納得できないことは、上司のみならず誰に対しても抗議してきた。したがって、毎月の賃金が原告が考えているより少ないのであれば、直ちに被告に抗議したり、監督官庁に相談に行って是正する方策を取ったはずであるが、年俸五〇〇万円の件はこれまで黙っていた。

2  争点2(被告の不法行為の有無)について

(原告)

(一) 原告は、被告に経理事務職として採用されたにもかかわらず経理事務に携われたのは三か月足らずで、他の仕事にまわされた。にもかかわらず、被告は、原告について、「経理ができなかった」「他に行くところがない」等といって自宅待機を命じ、その上解雇通知まで出してきた。また、自宅待機を命ずるまでに原告と、原告の仕事についての話し合いも全くなされていない。

(二) 原告は、これらにより名誉を毀損され、人権を傷つけられ、ストレスの結果、右目眼球出血をきたし、自分を解雇に追い込んだ小川専務の下で再び働くことが不可能となって、退職に合意せざるを得ない状況に追い込まれた。

(三) 原告は、被告により労働権を侵害されただけでなく、右のような人権侵害の結果、精神的にも多大な損害を被った。

(四) 本来なら、原告はあと二〇年間は被告方で働き続けられたにもかかわらず、退職に追い込まれたわけであり、原告の精神的損害及び本来得られたであろう逸失利益は、五〇〇万円×二〇年=一億円を下らない。

(被告)

被告は、経理・決算を担当させるために原告を採用したが、原告にはその能力がなかった。そこで、他の一般事務を担当させたが、業務の内容を理解する能力がなく、その結果、電話の対応や、お客の接待も満足にできなかった。さらに、被告の職場は職員が六、七名であり、協調性が必須であったが、原告は、攻撃的で、他の職員のみならず、上司にも遠慮なく食ってかかるなど協調性がなかった。そこで、被告は、原告を自宅待機させて、被告代理人を介して原告に職場での評価を告知し、原告に反省を求めたが、原告が反省しなかったため、原告に対し、解雇の通知をしたものである。

したがって、被告が違法に原告を退職に追い込んだ事実はない。

3  争点3(本件確認書作成の効果)について

(被告)

(一) 原告と被告は、神津職員を介して話し合い、解決金については、当初被告は給料二か月分、原告は三か月と主張したが、最後は相互に互譲し、次のとおり合意した。

(1) 原告が直ちに失業保険の給付を受けられるようにするために、被告は、解雇ではなく、勧奨の自主退職の扱いとする。

(2) 被告は、平成七年四月二八日付け解雇通知を撤回する。

(3) 原告は、同年五月三一日合意退職する。

(4) 被告は、同年五月分の給料を支給する。

(5) 被告は、解決金として、給料二・五か月分の六一万七二五〇円を支払う。

そして、被告代理人は、紛争の蒸し返しを防ぐため、神津職員に対し、文書の作成を求め、これに応じて、神津職員が本件確認書の文面を作成した。本件確認書三項は、後日の紛争の蒸し返しを防ぐために入れられた清算条項であり、この清算条項は、本件確認書にとって、本質的な条項である。

そして、原告と被告代理人が本件確認書に署名押印したことにより、同年五月二九日、原告・被告双方の互譲による和解契約が成立したものである。

原告は、慰謝料を放棄するつもりはなかったと主張するが、仮にそのとおりであったとしても、これは原告の動機であり、原告はこの動機を明示しなかった。

したがって、原告の本訴請求は、失当である。

(二) 仮に、原告の本訴請求が清算条項に反しないとしても、原告は、退職時には、不払賃金の問題も、一億円の慰謝料の問題もないごとく振る舞い、問題は退職に関する解決金だと装い、まず紛争解決金六一万七二五〇円をせしめ、ほとぼりが覚めたころ、まだ不払賃金、一億円の慰謝料があると言い出して紛争を蒸し返し請求を繰り返しているのであるから、本訴請求は、信義誠実の原則に違反し、禁反言の法理に抵触し、権利の濫用であって、失当である。

(原告)

(一) 平成七年五月二二日ころ、神津職員が原告に電話をしてきて、「職場復帰は無理なので退職の方向で考えたらどうか。解決金について被告側は二か月と主張しているがどうか」と尋ねた。原告は、解雇通告を受けたショックで体力も気力も弱っていたため、このままでは体力がもたないと考え、やむを得ず退職には同意した。しかし、「金額については二か月分というのはとても納得できない。なんでこんな少額でやめなければならないのか。不払賃金はどうなるのか。弁護士を入れて交渉したい」と答えた。これに対して神津職員は「不払賃金の請求や損害賠償については弁護士をつけて後日交渉するのがいいと思う。しかし、ここでは小さくまとめて、あとは土俵を変えて戦えばいいのではないか」と言った。そこで原告も「それではよろしくお願いします」と言って電話を切った。その後、解決金は二・五か月分になったという連絡があったが、原告としては、損害賠償等については後日請求できるという前提であったので、二・五か月分で納得した。

同年五月二九日には、被告代理人は何もしゃべらず、神津職員は「田中さんもご不満もあるでしょうが、小さくまとめるということで納得してね」と言った。そして、その場で神津職員がワープロで本件確認書の文面を作成し、原告と被告代理人双方に署名押印を促した。このとき神津職員からも被告代理人からも本件確認書の三項についての意味の説明は一切なかった。原告はこれで不払賃金の請求も損害賠償も一切できなくなるとは夢にも思わずに本件確認書に署名押印した。清算条項により損害賠償も含めて一切の請求ができなくなるということを原告が知っていれば、本件確認書には署名押印しなかった。

(二) したがって、仮に和解が成立したとしても錯誤により無効であるし、本訴請求は、信義誠実の原則にも禁反言の法理に反しないし、権利濫用にもあたらない。

第三争点に対する判断

一  争点1(給料増額通知の有無)について

1  原告本人は、その主張に沿う供述をし、同人の陳述書(書証略)も同旨である。

2  しかし、通常、賃金を年間四一九万七三〇〇円(一か月の給料二四万六九〇〇円に一七を乗じた金額)から五〇〇万円に約一九パーセントも増額するような場合には、それなりの理由なり根拠なりがあってしかるべきであるが、原告の主張及び供述等によっても、どのような理由等があって増額したというのか判然としない(なお、被告は、一か月の給料二四万六九〇〇円は、基本給が二二万六九〇〇円、住居手当と物価手当が各一万円で、賞与は基本給の五か月分であると主張する。これによると、年間の賃金は四〇九万七三〇〇円となり、増額率は二二パーセントとなる)。

かえって、前記争いのない事実によれば、原告は、平成六年二月被告に採用されたものの、同年五月中旬ころにはそれまで担当していた経理事務をはずされ、以後他の事務に従事するようになり、平成七年四月二〇日に自宅待機を命じられた上、同月二八日には、解雇通知を受けているのであって、これらの事実からすれば、平成六年一〇月当時、被告が、原告に対し、大幅な賃金増額(証拠略によれば、年間五〇〇万円というのは、他の従業員の賃金をも上回るものであると認められる)を通知するような状況にあったとは認め難い。

また、原告本人は、増額した賃金が支払われないにもかかわらず、少なくとも被告から解雇通知を受けるまでは、増額の点について被告に問い合わせたり、抗議したりする等しなかったことを認めており、このことからも、増額の通知があったとの原告本人の供述は信用し難い。

3  他に増額の通知があったと認めるに足りる証拠はなく、原告の主張は理由がない。

二  争点3(本件確認書作成の効果)について

1  前記争いのない事実と証拠(略)及び弁論の全趣旨によれば、本件確認書作成の前後の状況につき、次の事実が認められる。

(一) 原告から解雇通知を受けた原告は、神津職員に相談した。

(二) 神津職員は、原告と被告の間に入って話し合いを進めた。

(三) 被告は、当初解決金として給料の二か月分を支払うと提案したが、被告は金額が少ないと言って納得しなかった。

(四) 神津職員が間に入ってさらに交渉を重ねた結果、解決金を給料の二・五か月分(六一万七二五〇円)とすることで双方が了承した。

(五) そして、被告代理人が文書の作成を求めたため、平成七年五月二九日、原告、被告代理人及び神津職員が一堂に会し、同職員が文面を作成した本件確認書に、原告及び被告代理人が署名押印し、神津職員も立会人として記名押印し、これにより和解契約が成立した。

(六) 被告は、同月三一日、原告に対し、六一万七二五〇円を支払った。

(七) 原告は、後日、神津職員に御礼を言いに行った。その際、被告に対し損害賠償等の請求をする旨の話はしていない。

(八) 原告は、平成八年八月二三日、被告を相手方として民事調停の申立てをし、調停が成立しなかったため本訴を提起した。

2  一般に、和解契約中に、本件確認書三項のような「原告と被告は、本確認書に定める事項以外、本件退職に関し相互に一切の債権債務がないことを確認する」旨の条項(いわゆる清算条項)を入れる場合には、当事者は、当該紛争に関連する債権が他にあったとしても、それは放棄する趣旨であると解される。また、「本件退職に関」する債権債務という場合には、退職自体から生じる債権債務に限らず、退職に至るまでの紛争の過程で発生した債権債務も含まれ、したがってそれも放棄する趣旨であるというのが当事者の通常の意思に合致すると解される(もちろん、退職と直接関係のない債権債務まで当然に放棄する趣旨であるとは解されない。未払賃金債権の存否については、前記一のとおり別個に検討した所以である)。

3(一)  この点につき原告は前記第二の三3(原告)のとおり主張し、原告本人はその主張に沿う供述をする。同人の陳述書(書証略)も同旨である。

(二)  しかし、原告が本訴で損害として請求している精神的損害及び本来得られたであろう逸失利益というものが除外されるとするならば、原告が受領した解決金は何に対する対価なのかが原告の主張では不明である。

また、仮に原告の理解する解決金の中身と原告が本訴で請求している損害とを観念的に区別して考えることができるとしても、紛争当事者が退職に関連して支払われる解決金の額を算定するに際し、精神的損害や逸失利益を切り離して考えること、あるいは紛争当事者の間に入った者が、切り離して考えるよう当事者に勧めることは通常考え難い。

その他にも、前記1の事実経過、特に被告が給料の二か月分を提示したのに対し、原告が金額の上乗せを要求していること、原告が本件確認書作成後神津職員に御礼を言いに行ったこと、またその際には被告に損害賠償等の請求をする旨の話をしていないこと、本件確認書作成から原告が民事調停の申立てをするまでに一年以上が経過していることは、解決金をとりあえず紛争の一部を解決するだけのものであるとは考えていなかったこと、和解契約が成立した時点では納得のいく結果を得られたと考えていたことを推測させ、したがって、原告の主張とは両立し難い事実であるところ、これらの事実についての本人尋問における原告の説明は説得的であるとは言い難い。

(三)  右に述べた諸点に照らすと、原告本人の供述及び同人の陳述書は信用できず、錯誤があったとの原告の主張は理由がない。

4  そうすると、本件確認書三項の意味するところについて、原告が通常と異なる理解をしていたとは認められないのであって、原告は、本件確認書に署名押印したことにより、給料の二・五か月分の解決金を受領することで退職に関連する紛争を一切解決する意思(仮に退職自体から生じる債権債務、退職に至るまでの紛争の過程で発生した債権債務が他にあったとしても、合意された解決金以外の部分については放棄する意思)を表示したと認められる。

5  したがって、原告は、本件確認書の作成(和解契約の成立)により、退職に至る過程で被った精神的損害等の賠償を請求する権利を喪失したというべきである。

三  結論

以上の次第であるから、争点2(被告の不法行為の有無)について判断するまでもなく、原告の請求は理由がない。よって、これを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法六一条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 飯島健太郎)

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